労働は自由への道
死の壁。ここで銃殺された。
ここへはクラクフからいきました。アウシュビッツ収容所があるオシフィエンチムという駅からバスで1時間、鉄道で4,50分です。それで鉄道代のほうが高いってんだし、バスのほうがアウシュビッツ博物館のまんまえにつくんだから絶対バスのほうが良いのかもしれない。経済的、時間的に。
ただし私は絶対に鉄道でいきたかった。
鉄道の貨物列車につめられ、振動にゆられてきたユダヤ人、またそのほかの迫害をうけていた人々たちの気持ちに近づきたかったからだ。
そのため、寝過ごした1日目は諦め、2日目にトライ!!
若干二日酔いにて危険だったけどちょーーーーーーーーーー走ってまにあった。
というか現地の美女たちのおかげ。今彼女たちって何してるんだろう、そこは連絡先交換しておくべきでした。うむ・・
ではでは心してみてください。
アウシュビッツ絶滅収容所
7年の歳月をかけたものなんできっと長いので覚悟してください。
今回のヨーロッパの旅はこれを見るためにポーランドメインにルートを組んだものだ。
「アウシュビッツ」
その名をはじめてきいたのは中学2年生の歴史の授業だった。先生がひととおり説明したあとに映像と歴史かなんかのビデオを見せてくれた。当時の私には耐えられない衝撃だった。
まるで人形のようにたくさんつみあげられた動かない人間たち。そのどれもが骨と皮で、頭髪は剃られ服は着ていない。人間らしさがまるでない。実感がわかない。マネキンのようだ。最初はただただ気持ち悪かった。
でもよく考えたら彼ら(彼女ら)は自分と同じ人間で、その人、ひとりひとりの人生があったんだなぁと思った。あなたの周りをみてほしい。
誰ひとりとして同じような人はいない。ひとりひとりに個性がある。
つみあげられた死体。50人はいるだろうか。無造作につみあげられているそのひとりひとりにドラマがあったなんて考えられなかった。とてもむなしかった。
…途端に何てことがおこなわれたんだろう…と信じられない気持ちに陥った。
そして当時はうまく理由を説明できなかったけれども絶対いつかアウシュビッツに行こうって決めた。
それから生存者でヴィクトール・E・フランクル精神科医が書いた夜と霧という本や、反対にナチス側の本など、とにかくいろんな本を読みあさった。
アウシュビッツは政治犯や同性愛者、ポーランド人やロシア人、ユダヤ人を収容するために作られた大規模な収容所だ。実際には過酷な強制労働を強いられ無慈悲に虐殺されたので絶滅収容所ともいわれている。ユダヤ人は600万人犠牲になったといわれているが最近では150万人が有力説となっている。
脱走したもの、食料を盗んだものは立ち牢に入れられたり、強制労働をかせられたり、また見せしめのために絞首刑にされた。ここだけきくとルールを守らなかったんだからなぁ…って思うかもしれない。でもよく考えてほしいのは、彼らはなぜ捕らわれているのか?と。将来はこうしたいとか夢や希望に溢れた子どもがいたかもしれない。でも彼らは最初の選別で身長が足りないだけで殺されたりもした。労働力にならないと。
彼らは何をしたのか?なぜ捕らわれなければならなかったのか?
それはただ単にユダヤ人だったから。
・・・やるせない。
高校のときも、大学のときも海外に行っていたわけだから行こうと思ったらいけた。けれどきっと今いったらあまりにも衝撃的すぎて心が壊れてしまうのではないかと思ってやめていた。今年の春にいけそうだと思ったのは、やはり去年1人でタイ・カンボジアと行ってから。コレは本当に直感的に。細木さんの占星術では私は今年すっごい最悪な年で、しかも海外旅行とくにヨーロッパは控えろって言われてて少しびびった。けれどそんなんで旅をやめるほうが後悔すると思って。
できれば春の少し寒いけれど天気が良いときにいきたかった。私は思った。春の暖かな日差しにつつまれると気分が和らぐ。彼らはどんな思いで空を見たのだろう?と。素直に喜べただろうか…?それはわからない。けれどアウシュビッツの第2収容所であるビルケナウは周りに自然がたくさんあって何も知らなければ美しい自然の場所だとさえ感じた。春に来れて、細木さんを振り切ってきてよかったと思った。
アウシュビッツの門には言葉が書かれている。
「ARBEIT MACHT FRIE」
ドイツ語で、働けば自由になる もしくは労働は自由への道 と訳される。
写真からもわかるが、Bの上のほうの膨らみが大きくなっている。これはせめてものユダヤ人の抵抗とされている。私もこの門をくぐった。きっと私がこの門をくぐるのと、彼らが通ることは考えられない気持ちの差があると思いながら。
一度も水が出ることはなかったガス室・何人もの人が銃殺された死の壁・生活をしていたバラック・人間の灰が投げ込まれた池などを見学した。ビルケナウではバラックの内部がほぼ当時のまま残されていたので、その木のベッドに触れてみた。あぁ…こんな狭いところで。そして木の古くなった匂いと地面からの湿気。なんだかむしょうに悲しくなった。気づいたらビルケナウの広い広い土地をひとりで歩きながら私は声をあげて泣いていた。なんでこんなことを・・やるせない思いが一気にこみ上げてきたのだ。
収容所の建物は一見すると、緑の芝生に茶色い建物とかわいく見える。それがすごく皮肉だった…。
私がすごくすごく痛ましいのは多くのドイツ人がナチに賛成してしまったこと。今考えたら明らかにばかばかしい考えだってのはわかる。けれど当時はそういう状況だった。確かに当時のドイツは不況だったらしく、そういう意味では普通の状況ではないかもしれない。ただ悲しいのは普通の民衆がそう思ってしまったこと。もちろんレジスタンスがあったし反対してる人だっていた。何もできずに見ているしかなかった人もいると思う。でもやっぱりやるせない・・・おんなじ人間なのに。。
帰りに東京で、ホロコースト教育資料センターに行ってきた。アポとらないでいったんでお話できるかわからなかったけど、高校んときの修学旅行で訪れたことを言ったら快く時間をとってくれた。そこのセンターの人たちも言っていたが、アウシュビッツと聴いて、
「あぁヒトラーのやつでしょ?」
って一言では片付けてはいけないと、私も思う。
そこはものすごく死や負にまみれた場所だったと思うが、逆にどうやって生き延びるかなどの生もそこにあったと仰っていた。重要だと。学べるものがたくさんあると。
私がなぜ中学のときにアウシュビッツに行きたいと思ったかがやっとわかった気がした。あそこはものすごく生死について学ぶものが多い。もちろんそれだけではないが。
そして二度と二度とこのようなことは繰り返してはいけないと思った。世界ではまだ紛争が続いていて、その中には民族対立などもあり民族による虐殺などもあると思う。
戦争をこの世なんて無くすのはすごく難しいことだ。けれど1つでも減ってほしいと思った。